3つの占いについての雑感
以前もどこかで書いたと思いますが、私はおおむね、何かを占うときにはまずルーンで概略を見た後、タロットカードを使うことが多いです。(最近はルーンはちょっとお休み気味で、西洋占星術の比重が増しています<2001年8月補筆>) そういったことで日常的には「ルーン占い」「タロットカード占い」「西洋占星術」を主に使っているわけですが、これらにはそれぞれ特徴があって、そのことについてあれこれ考えてみるのはなかなか面白いです。 例えば私にとってまず最初に心に入ってきたのは「西洋占星術」でした。そうですねえ、小学校の頃でしょうか。 ところで、生まれたときの星の位置からすべてを解釈していくというのは、考えてみたらなかなか思いきった占い方ですが、でもその伝統たるや数千年の長きに渡るものですし、そう思うと、とても根元的な占いですよね。 ちなみに最初は、当然ながらホロスコープを作って見ていたわけではなく、直接星空を見上げて観察していました。星の恒常的な動きより、大きな変化、つまり「彗星」や「食」などが重視されていました。 夜、星を見上げていろんなことを思うっていうのは、とても本能的な行為だと思いませんか? ホロスコープ占星術に関していうと、ある時にある場所で生まれる人は必ずひとりなのですし、その瞬間のすべての物質の状態はその時限りのもので二度と再現不可能なものです。その意味で究極のホロスコープ(ネータルチャート)は、各人ひとりづつ違うわけですし、またこの宇宙のすべての要素がその人の存在に多かれ少なかれ関わっているのは確かですし、そう考えると決して荒唐無稽な占い方だとは言えませんよね。 もちろん物理的な因果関係ばかりを追いかけてみるのではなく、シンクロニシティに代表されるような精神的な世界観における星と人間の照応も無視できない問題です。 ただこの占いにはデータが不可欠だという縛りがあります。 かのクロウリーもミクロコスモスとマクロコスモスの照応をあげた上で「<占星術>は理論的には完璧な方法である」としながらも「全データ群を評価し、巨大な諸力が集中している諸元素を釣り合わせ、そこからただひとつの判断を抽き出すということは、ほとんど人間の能力を超えた務めである」と語っています。 というと私は何だか占星術批判論者のような感じがしますけど、違いますよ!!! 今、十分に作成可能な精度のホロスコープでも占いに関しては何の問題もありません。逆に、天文学的な精密さを要求すると逆に占星術の本質を外れてしまいます。 もちろんこれからも、私は「西洋占星術」の世界を探求して、少しでもその中からより良く生きて生きていくヒントを導き出したいと願っています。 星が導き出す運命・・・何となくロマンチックでもありますよね。 次に「ルーン占い」なんですが、これはタロット占いをしている過程で出会いました。10年ちょっと前でしょうかね。 ところで私が「ルーン占い」を好む大きな理由は、とにかく大雑把な質問にもちゃんと答えてくれるということと、その答えが必ずポジティブであるということです。 また、とても優れた力を持っていながら、親しみやすいのもルーンの良さですね。 ルーンは北欧神話と切っても切り離せないくらいの強いつながりを持っています。そしてその神話の中のエピソードとして、オーディンが自分の片方の目を犠牲にしてまでルーンの魔術を手に入れようとするところがありますが、何だかわかるような気がしますね。 最後に「タロット占い」ですが、これは語りはじめるときりがありません。 「タロット占い」は、うーん、わたしにとっては仕事のような存在でしょうか。 一般の人が気軽に景色のスナップ写真を撮るところを、プロのカメラマンは非常な集中力をもってより良く景色を切り取ろうと試みますが、それと似ていますね。 ちなみに、タロット占いが仕事なら、ルーン占いは趣味でしょうかね。 ということで、今回は雑文でした。 |
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