メソポタミア
メソポタミアの地が占星術の発祥の地だという話にどれほどの信憑性があるのかわかりませんが、一般にはそう言われています。
確かに中国占星術など、バビロニアの英知と交わることなく東洋で独自の発達を遂げた占星術もあるし、おそらく世界中至る所に存在するであろう占星術の同胞たちが、すべてユーフラテスの流れから生じたと考える方が非現実的ではあります。
ただ今日、一般的に占星術(アストロロジー)と言った場合に多くの人が想像するところの「西洋占星術」、そして最近、とみに人気が出てきたジョーディシュ・アストロロジー(インド占星術)に限ると、その元をたどれば古代バビロニアに行き着くと考えた方が歴史的な流れがすっきりとする上に、第一ロマンチックですよね。
時の頃、紀元前4000年以上の昔。
かの地の人々は月の満ち欠けを記録にとどめ、暦を作っていました。
そして天の星の運行と地上の出来事との間に密接な関係があるに違いないと信じ、熱心に星を観測・研究していました。
もちろん今のような天文学(Astronomy)と占星術(Astrology)の区別はありませんでした。
それらは、いわばひとつの学問だったからです。
つまり古の星の学問は『実際の天の星』を見て物事の成否・吉凶を判断していたのであり、重要視されていたのは太陽や月の他、めったに起こらない天体の動き、つまり「彗星」や「食」「新星」などでした。
これらのいわば天変が地上の出来事に影響を持つと考えられていました。
例えば、彗星が現われれば飢饉がくるとか、食には為政者が死ぬなどといったものの見方ですね。
紀元前7世紀には、しかし、太陽・月以外の5つの惑星(水星・金星・火星・木星・土星)は知られており、ゾディアックのサインも定められていました。
ちなみに紀元前9世紀の頃には18もあったサインですが、それらが現在のように12になったのは紀元前4世紀の頃です。
何か、この辺りから後のホロスコープ占星術の香りがしてきますよね。
ところでこの古の占星術が隆盛を見たのは紀元前5世紀頃のバビロニア。いわゆるカルデア人たちによってでした。
この占星術の先進国家たるカルデア帝国がペルシアに滅ぼされ、貴重なる星の知恵を携えたカルデア人たちが各地に散らばっていったのが、紀元前4世紀。
そして、この占星術の伝播にさらに強力な追い討ちをかけたのが、アレクサンダー大王の東方遠征。
結果的にインド・メソポタミア・エジプト・ギリシアというそれぞれに発達していた文明がアレクサンダーの大帝国の中で融合され、様々な学問がさらに高度なものへと成長していったのですが、その成長していったものの中に、占星術も当然のごとく含まれていました。
ギリシア・ローマ
さて、その後の占星術の発達の重要な部分を担うことになるのはギリシア人でした。
もともとギリシアにはピュタゴラスに代表されるようなギリシア独自の占星術の伝統があったのですが、それがカルデアの知恵によって高度に進化しました。
そうなると、もともと哲学には素養のある彼らなだけに、結果的にギリシアでは星の科学が天文学と占星術とに区別されるほどに高度に専門化されていきました。
ちなみに分けられたということは、優劣がつけられたということではありませんのでお間違いなく。
ということで、これからしばらくの間、アフリカ大陸のエジプトにありながら多くのギリシア人が活躍したアレクサンドリアが占星術の聖地とも呼べる土地になります。
そして、プラトン、アリストテレス、そしてヒッポクラテスあたりを通過して、理論的な武装を強化していった占星術の歴史に、ついには紀元前2世紀、不滅の天文学者ヒッパルコスが登場し、現在に続く天文学的な考察を占星術に加えました。
例えば、『春分・夏至・秋分・冬至が一年を等分しないことや歳差運動によって春分点が移動する事実を発見し、1000以上にわたる恒星の目録も作り上げた』などということが彼の業績だと言われています。
ちなみにこれらの流れの中から、かつて国家や為政者のみを対象にしていた占星術を個人レベルの存在に引き下げ、しかもホロスコープを使って星の動きや相互の影響力を探るなどということも始まりました。
紀元前2世紀。世は後の巨大帝国ローマの成長期。
「アレクサンドリア」や「カルデア人」というギリシア人に占星術の恩恵と刺激を与えたキーワードは、再び、ローマ人にも強く作用しました。
ローマ人はギリシアの知恵をそのまま引き継いだだけでなく、自分たちの神々の名前を占星術における重要な星に捧げ、そのシンボルを神聖なものとまでしました。
よってそれからも占星術はローマの世の中でも大きな影響力を行使し続けました。
ローマの初代皇帝アウグストゥスは金貨に彼のサインの象徴を刻んだほどでした。
やがてローマで人類史上最初の大占星術ブームが巻き起こります。
当時の最先端の知識人たちはその傾向を憂い、何度も占星術を攻撃し、しまいには社会不安の中でほとんどの占星術師がローマから追放されるという事態にまでなってしまいましたが、そうなってもまだ占星術はしぶとく社会の根底の部分で生き抜いた。
結局、ローマの宮廷そのものが占星術師の力を必要としていたという動かしがたい事実があったのです。つまり、それほどまでに当時のローマ社会の奥深くにまで占星術は浸透していたということになります。
そんな中、紀元1世紀には偉人マルクス・マニリウスが登場し、古代の占星術書「アストロノミカ」をあらわしました。
2世紀には、ついにマニリウスの影響を受けた占星術界の巨人プトレマイオス・クラウディオスがあらわれ、現在でも占星術のバイブルとされる「テトラビブロス」、そして「アルマゲスト」を書きました。
ここにおいてようやく占星術理論の基礎が、文章として示される形で確立されたのです。
しかし、それほどまでに人々の暮らしに密接に関わっていた占星術に、ついにその存在を根底から揺るがすほどの逆風が吹き始めました。それまでの歴史の中でも類を見ないほどに激しい嵐。
時は5世紀。ローマ社会を強力に支配していたキリスト教の聖職者たちがいつしか占星術の最大の敵となっていたのです。
「異端信仰」の烙印を押されることが、どれほどの恐怖であったかということは、今となっては想像もつきませんが、それでも数多くの占星術師たちがローマの支配する地を離れ、シリアやペルシアというまさに異教の地、つまりイスラムの地に逃れたという事実は記憶されるべきでしょう。
なぜならこれ以降、11世紀頃にふたたび西欧が占星術に意識を向けるまで、その大きな歴史の流れはイスラムの地において受け継がれていくことになるからです。
アラビア
イスラムの地においても占星術は完全に安泰とは言いがたかったのです。
むしろ教理に厳しいイスラムの地において、占星術師たちにはより慎重な態度が求められました。
決して星が神を冒涜するものであってはならなかったのです。
そんな中でアラビアの占星術師たちはそれまでの理論体系を整理し、より深く考察し直しました。
マーシャアーラー、アル・キンディ、アブ・マシャール、アル・バタニ、アル・ビールーニーなど、今に名を残す偉大な占星術師たちが次々に生まれ、盛んな著述活動をしました。
西欧が教会の締め付けの中で自由な学問の発達を遮られている間、皮肉なことにアラビアの占星術師たちの思想には個人を見つめたギリシア哲学の流れすら見られました。
ちなみに現在にアラビックパートとして伝わるところの、天空の座標点があります。
これはなにもこの時期のアラビアにおいて発明されたものではありませんが、、ただ体系化され大いにその存在感を高めたのはこのアラビアの地においてのことでした。
例えばアル・ビールーニー。
彼はアラビアというより現在のロシアに近い場所で生まれ、かの地での勢力争いに翻弄されながらもその優れた見識でその時々の勢力者に重用された硯学の人でしたが、彼はインドにも旅をして深く占星術を研究した後、143ものアラビックパートを記録しました。
後に西欧の研究者がこの頃のアラビアの精密かつ高度に体系化された占星術に驚嘆し、その理論を受け入れた際に、それらの座標点をアラビアの占星術の特徴として認識したために「アラビックパート」と呼ぶようになったのだと言われています。
時は11世紀。
ようやく長い占星術(に限りませんが・・・)の暗黒時代が西欧で終わろうとしていました。まだ再興隆を迎えるまでにはさらに4世紀を数える必要があるとはいえ、占星術に対するキリスト教の迫害が弱まり、確実に世の中の様子が変わってきたのです。
ルネッサンス
11世紀から14世紀まではその後の占星術大ブームに至るまでの助走期間でした。
その間も迫害は完全に無くなっていたわけではなく、占星術を使ってキリスト教の解釈をしたために異端審問にて有罪の判決を受け、火あぶりにされた占星術師の記録も残っています。
ですが、その一方、プトレマイオスの「テトラビブロス」がラテン語に翻訳されたり、大学に天文学のコースが正式に設けられたりという流れも見えました。
アラビアからの知識の流入が大いに西欧を刺激していたのは間違いないところでしょう。
ところで占星術が再び力を得ていく中で教会も対応策を打ち出しました。
まず、星が人の運命を完全に規定しているという考えには強行に反対し、弾圧しました。
天の星にすべての運命が描き出されているとなると、神の権威と人間の自由意志が損なわれてしまうという判断がそこにはありました。
でも一般には天変が起こった場合その原因を星に求めるというようなことは、常識的に行われていたのです。
そしてついに時代はルネッサンスの時代を迎えます。
教会の重苦しい支配から精神を開放し、古代ギリシアの英知を蘇らせようとする動きが生まれてきたのです。当然、占星術には追い風となりました。
これには、ひとつにコンスタンチノープルがトルコによって陥落し、それまでそこで活動していたギリシア人の学者たちがイタリアに逃れて来ざるを得なくなったという背景もありました。
ところでルネッサンス期には印刷術が発達したため、占星術における貴重な文献や暦・天文暦などが広く世の中に行き渡ることにもなりました。
今もハウスシステムに名を残すレギオモンタナスもこの頃に活躍し、天文暦を出版しています。
とはいえこの時期、レギオモンタナス以上に後世に影響を与えたのはパラケルススでしょう。医学・哲学・占星術に錬金術という様々な分野に名を残しました。
また神秘学へ貢献という点ではコルネリアス・アグリッパも忘れてはならない名前ですし、かのコペルニクスもこの時代には占星術師として知られていました。
とにかく、まれに見る多士済々の時代。
ここにローマ時代に続く、人類史上2番目の大占星術ブームが始まったのです
続く16世紀には占星術は教会をもってしても押さえ切れないほどの力を得ていました。
法皇自らが占星術の影響下で動いていたほどでした。
しかもこの世紀の始めには占星術の歴史の中でも最も有名な人物「予言者」ノストラダムスも誕生しています。
占星術はわが世の春を謳歌していました。
しかしその勢いにも17世紀ぐらいから陰りが見え始めます。
地動説・天動説の論争も続き、その中で天文学と占星術の溝が決定的に深まり、またそれまで堅固だった医学との関係も徐々に無くなっていきます。
ただこの時期、イギリスにおいて偉大なる占星術師ウィリアム・リリーが誕生したことだけは、その後の占星術の発達において幸運でした。
18世紀は占星術にとって冬眠に等しい時代でした。
そしてその流れは、19世紀の初めまで続きました。
その間、トランスサタニアン(天王星)の発見もあり、占星術は根本的な見直しを迫られてもいたのです。
近 代 ・ 現 代
19世紀に入り、ようやく占星術は復興の兆しを見せます。
ラテン語で書かれていた「テトラビブロス」が英訳され、多くの人々に衝撃を与えました。
かの不滅の魔術師エリファス・レヴィもこの辺で登場してきます。
また19世紀末の、イギリスの革命的占星術師アラン・レオの登場も特筆すべきでしょう。
いくつかのテキストを自ら記し、しかも雑誌を起こし、ホロスコープの作成サービスもはじめました。占星術の発展と認知には、大きく貢献した人物です。現代的な占星術師のはしりのような気がします。
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